【ネタバレあり感想】「名探偵ピカチュウ」 “サトシになれなかった”大人たちを祝福する楽園のような傑作

「名探偵ピカチュウ」は、ポケモン世界にいることの幸福感を観客の全身に刻み込む傑作だ。ピカチュウは目の玉が飛び出るくらい可愛いし、ポケモンと人間が共存するライムシティの光景は、子どものころ夢想した楽園そのものであった。今作は、大人たちの“胸の扉”をノックし続け、“子どものころ”に忘れてきてしまった宝物のような記憶を鮮やかによみがえらせる。

 僕は小学校低学年で、シリーズ初代の赤・緑を経験している。地元にあったゲームショップ「カメレオンクラブ」で、当時発売したばかりのゲームボーイポケットとともに買ってもらった。毎日、学校から帰ると一目散にゲームボーイの電源をつけ、母親には白い目で見られ続けていた。しかられるとしぶしぶプレイを中断し、ほとぼりが冷めると隠れるように再び電源をつけたものだ。151匹は姉のカセットをこっそり拝借して集めたし(東京ビッグサイトは遠すぎたためミュウはバグ技で入手した)、友だちとの対戦では裏技でレベル100に強化したミュウツーを繰り出しドヤ顔をしていたりした。高橋名人が大人の対応ができなくなるような膨大なプレイ時間のおかげで、視力は急落し、以来、メガネとコンタクトレンズが手放せない生活を送っている。

 もちろんアニメにも熱中し、主人公の名前がレッドではなくサトシであることに少々の不満を感じながらも、毎週欠かさず視聴を続けていた。いつか自分もサトシのように旅に出て、ポケモンマスターになる。そう思っていた。

 ポリゴンショックにより放送が中断され、楽しみにしていた劇場版第1作「ミュウツーの逆襲」も、子の健康を慮る母親から「絶対に見に行くな」と禁止令を食らい悲しい思いをしていた。そのころの僕のなかでは、ポケモンの世界はただのゲームという枠を逸脱し、自分の世界の延長線上に間違いなく、確固たる割合いを占めて存在していた。1990年代の多くのキッズたちが経験したであろう熱狂。自分自身がこの世界の主人公だと疑わなかった、心温まるあの時代のエピソードだ。

 それから小学校高学年になり、64のコロシアムや金・銀にも触れた。一通りプレイし、それなりに熱中したものだが、なぜだか以降のシリーズには手を出さなかった。いつの間にか、プレイするゲームはドラクエ、FF、バイオハザードなどに移り変わっていた。年齢が上がり、思春期を経るに従い、ポケモンとはなんとなしに疎遠となっていった。ポケモンの世界は、今にして思えば不思議とも感じられるほど唐突に、僕の世界から姿を消した。

 「名探偵ピカチュウ」は、そんな経験をした者のために作られた。言うなれば、“僕の物語”である。

子どものころ夢想した“ポケモンの世界”が、スクリーンで躍る

 念のため、あらすじを映画.comから転載しておく。

 子どもの頃にポケモンが大好きだった青年ティムは、ポケモンにまつわる事件の捜査へ向かった父ハリーが家に戻らなかったことをきっかけに、ポケモンを遠ざけるように。ある日、ハリーの同僚だったヨシダ警部から、ハリーが事故で亡くなったとの知らせが入る。父の荷物を整理するため、人間とポケモンが共存する街ライムシティへ向かったティムは、自分にしか聞こえない人間の言葉を話す“名探偵ピカチュウ”と出会う。かつてハリーの相棒だったという名探偵ピカチュウは、ハリーがまだ生きていると確信しており……。


https://eiga.com/movie/90321/

 ティムがライムシティに足を踏み入れる序盤のシーン。それを目の当たりにしたときの多幸感は忘れられない。林立するビルの間を気持ちよさそうに飛び、高所作業員に荷物を届けるウォーグル(ピジョットだと思ってたけど違うんだね)。4本の腕でテキパキと交通整理を担うカイリキー。戯れるように消火活動にあたるゼニガメ。その辺のベンチに座ってグダグダしているヤンチャムとゴロンダ。子どものころの自分が体験したかったポケモンの世界が、スクリーンで躍っていた。「レディ・プレイヤー1」や「ズートピア」を思い起こさせる楽園のような舞台で、父の行方の謎、ミュウと不死と進化、ポケモンを凶暴化させる“R”が相互に絡みあい、物語はミステリーと伴って駆動していく。

 ピカチュウの可愛さは言うまでもないため、ここではあえて語ることはしない。というかオススメポイントは以下のツイートにようやくされているため、そちらを参照してほしい。

 それよりも僕が強くこの映画にひきつけられた理由は、ティムにある。

ティム=現在の自分自身

 ティムは子どものころはポケモンが好きだったが、父親との関係性のこじれによりポケモンと疎遠になっていった。ポケモントレーナーになる夢はいつの間にか将来の選択肢から外れ、今は保険会社に勤め刺激の少ない生活を送っている。

 自分自身の境遇と重ねずにはいられない設定だった。社会に出たミレニアル世代の観客の多くは、自分とティムをダブらせ、共感をほとばしらせ、物語に底なし沼にはまるようにどっぷりと浸かっていったはずだ。

 さらに実写の生々しさが没入感を加速させ、客席とスクリーンの向こう側を地続きだと感じさせる。いったいどれだけの費用と人員と労力を投入すれば実現できるのか、想像もつかないほどのクオリティで創出されたライブアクションは、現実のこちらと非現実のあちらの境界を消失させた。真に迫った舞台装置の数々は、ポケモン世界で生きることの喜びを僕たちに教えてくれたのだ。

 ところが、自分がポケモン世界にいることをビンビン実感しゾクゾクする一方で、否が応にも現在の自分自身を顧みてしまう冷めた思考にも囚われていた。そして、ティムが肩に乗ろうとするピカチュウを拒否したとき、無性に切なくなって涙が止まらなかった。

 結局、俺はサトシになれなかったと気づいてしまったからだ

サトシになれなかった大人たち、自分自身の人生を歩む僕たち

 どうして俺の肩には、ピカチュウがいないんだ? それはここが現実の世界であるから、とかそんな次元の低い話ではなく、ただ単純に、俺がサトシになれなかったからだ。多くの観客がティムと父親の絆で涙しているのをよそに、僕は僕で、冷静に考えるとどうかしていることでさめざめと泣いていた。

 いつか旅に出て、ポケモンマスターになると無邪気に豁然大悟していたあの日から、だいたい20年くらい。ポケモンマスターになるどころかポケモンと出会うことすらできず、今は普通に会社員として生きている。それはなにも僕だけではないと思う。もしかしたら、この記事を読んでいる、あなただって。

 ティムも、世界中にいる“サトシになれなかった大人”の1人だ。そんな彼がピカチュウを拒否する姿は、僕が大人になるにつれ叶う見込みがなくなった夢から目を背け、ポケモンたちを遠ざけていたことと重なった。僕はいつから、“夢”という言葉を使わなくなったんだろう。

 しかし映画のティムは、ポケモンと共生する街に存在する。ポケモンと触れ合っている。彼の一挙手一投足は、実は僕がやりたかったことの全てが詰まっていて、でもこれは映画のなかで起こっていることだから僕にはできない、触れられそうなほどこんなにも現実感があるのに非現実だから触れることなんてできない、そんな虚実の皮膜を決定的に刻み付けられて、僕の心は千々に乱れた。残酷すぎる。最初はそう思った。

 だけどこの映画は、現実という抜群に切れ味の鋭い刀を振り下ろしたわけではなかった。ティムはドダイトスの庭(これがもうスケールがすごいのなんの)を切り抜け、ライムシティでのビル・ナイ内蔵ミュウツー(からくりサーカスかよ、と思った)との対決を乗り越え、ついには過去と折り合いをつけ、父親との再会を果たすとともに次にステージへ踏み出していく。そんな筋書きは、サトシにはなれなかったけれども、自分自身の人生を一生懸命歩んできた僕たちに対する“祝福”なのだと思った。

 愛とリスペクトにあふれた幕引き映像と、一方で珍妙かつヘンテコなエンディングソングを聞きながら、今度は先ほどまでとは別の涙を流していた。ティムが僕たちであるならば、彼が経験した喜びは僕たちのものでもある。人生は続く。僕は、僕の人生を精一杯歩む必要がある。ほかでもなく僕のために。「名探偵ピカチュウ」が、ただ単に映画を見るという行為以上の何かを与えてくれる理由が、ここにある。これは肯定の物語だ。僕らの人生を丸ごとあたため、孵化させてくれる傑作。また劇場に行き、ティムに会いに行こうと思う。