「リチャード・ジュエル」レビュー・解説・感想 80点 テーマはSNS社会とフェイクニュース、メッセージは「現実を生きろ」 イーストウッドによる渾身の秀作

2020年2月19日

80点:高品質で満足度は高いが、いかんせん地味なので、ポップなライト映画ファンは楽しめないかも

 「書を捨てよ町へ出よう」とは、寺山修司による一連の作品群である。内容自体は結構に過激なアングラ作品であるが、現在は往々にして、その言葉の響きのみで意味が語られる。それはだいたい、その時代の急速に発展し始めたメディアにとらわれることをやめ、フィジカルな経験を与えてくれるメディアに接するべきだ、ということのように使用されている。

 この記事では、あえてその“誤った解釈”とも言える“言葉の響きのみの解釈”を引用し、この「リチャード・ジュエル」(1月17日公開)という作品を語ってみる。現代の支配的なメディアといえば、言わずもがなスマートフォン、もっと言えばSNSである。

“早撮りおじいちゃん”こと巨匠クリント・イーストウッドは、今作で“SNS社会の危険性”を描き出している。これまで彼は、常に「構造や組織や装置に擦り潰される個人」を描出し、現代社会への示唆に富んだメッセージを解き放ってきた。例えば「ミリオンダラー・ベイビー」は、貧困という構造に押し出され昏倒した女性の悲劇。例えば「アメリカン・スナイパー」は、戦争という構造に圧殺された男の生涯だ。

 今作もその例に漏れず、メディアという装置に翻弄される1996年のか弱き主人公の姿を通じ、現代のSNS社会の危険性を浮き彫りにしていく。物語は比較的抑えたトーンで進み、かと思えばカタルシスが足元から静かに沸き起こり、見る者を飲み込んでいく。僕らは胸が熱くなり、落涙する。そして最後に、そんな僕たちに向けて、89歳の巨匠はこう囁いてくるのである。

 「SNSを捨て、現実を生きろ」と。物語やキャスト・スタッフの豆知識や裏話を紹介するとともに、作品のテーマを読み解くレビューを以下に記している。

物語・キャスト・スタッフ

 1996年、五輪開催中のアトランタで、警備員のリチャード・ジュエルが、公園で不審なバッグを発見する。その中身は、無数の釘が仕込まれたパイプ爆弾だった。多くの人々の命を救い一時は英雄視されるジュエルだったが、その裏でFBIはジュエルを第一容疑者として捜査を開始。それを現地の新聞社とテレビ局が実名報道したことで、ジュエルを取り巻く状況は一転。FBIは徹底的な捜査を行い、メディアによる連日の加熱報道で、ジュエルの人格は全国民の前で貶められていく。そんな状況に異を唱えるべく、ジュエルと旧知の弁護士ブライアントが立ち上がる。ジュエルの母ボビも息子の無実を訴え続けるが……。

https://eiga.com/movie/92146/

監督:クリント・イーストウッド

 “早撮りおじいちゃん”の異名をとる。嘘、僕が勝手に呼んでるだけ。60年以上もハリウッドの第一線に居続ける妖怪、もとい大スター。大体の監督が2~3年に1本ほどの新作発表ペースなのに対し、イーストウッドはほぼ1年に1本ペースで新作を発表し続けている。90歳近いのに。今作に関してはキャスティングが決まったのが6月なのに、11月にはもうワールドプレミア上映(世界初上映)するというデタラメなことをしていたので、「この監督だけ時空が歪んでるのかな?」と思った。異常すぎ。

主人公リチャード・ジュエル役:ポール・ウォルター・ハウザー

 「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」「ブラック・クランズマン」で独特の存在感を放ったお人。当初、リチャード役はジョナ・ヒルが演じる予定だったらしいが、ウォルター・ハウザーのほうが似ているのでハマり役である。あまりに激似で、リチャードの実母ボビも腰を抜かしたとか。フランスの映画監督ロジェ・ヴァディムは「私は貧弱な真実より、華麗な虚偽を愛する」と言ったが、これはまるで逆である。逆・ロジェ・ヴァディム。つまり逆ヴァディムだ。

弁護士ワトソン・ブライアント役:サム・ロックウェル

 「スリー・ビルボード」で第90回アカデミー賞で助演男優賞を受賞した実力派。ホワイト・トラッシュ(クズ白人)を演じさせたら天下一品のロックウェルだが、今回は軽さと情熱を併せ持ったナイスガイ役で、見ていて安心感がすごい。役作りのためかだいぶ痩せていて、ロックウェルというか、サイモン・ペッグに見える瞬間があるくらい痩せていた。当初、ワトソン役はレオナルド・ディカプリオが予定されていたそう。そっちも見てみたい気はする。

ほか

母ボビ役は「ミザリー」「タイタニック」「アバウト・シュミット」などのキャシー・ベイツ。惜しくも受賞はのがしたが、ゴールデングローブ賞やアカデミー賞で助演女優賞にノミネートされており、存在感が高く評価された。さらに「ベイビー・ドライバー」のジョン・ハムと、「her 世界でひとつの彼女」のオリビア・ワイルドが、めちゃくちゃムカつく役を担当している。

ネタバレ感想・レビュー

 96年に実際にあった事件と、それに紐付いた“メディアリンチ”を描く今作は、現代のSNS社会への警鐘を鳴らす。しかし物語のメインとなるのは、リチャードとワトソンの友情と、逆境からのアツき逆転劇である。

主人公たちの友情

 映画は、リチャードとワトソンの出会いから始まる。用具係のリチャードが、オフィスの各机に備品を配給して回る。電話で喚き散らすワトソンのもとへ行く。2人は短く会話を交わし、なんだかシンパシーを感じて仲良くなるのだが、この過程が結構面白い。

 リチャードがワトソンに、「引き出しを開けてみて下さい」的なことを言う。ワトソンが開けると、スニッカーズがぎっしり入っていた。「いつも食べているでしょう、今日は食べきっちゃったみたいだから、入れときました」みたいにフフンとほほえむリチャード。見ているこっちは「いや、勝手に机開けて中身をあさるなよ、このデブ!」とツッコミたくなるのをグッと我慢しているのに、なんだかワトソンの表情は「やるやん、こいつ」みたいに感心している。マジかこいつら。

 シーンが変わると、リチャードがゲームセンターで“TurkeyShot”というガンゲームに興じている。白昼のゲームセンター、回りには子供ばかり、そこに1人窓から差し込む光を浴びながら、デブが銃を構え小首をかしげて画面に照準を合わせている、という地獄みたいな絵面が画面を彩る。そこにワトソンもやってきて、2人で仲良くガンゲーム。銃を構えるおっさんが2人に増えた。通報されても文句は言えないのではないだろうか。なんかけなしているように見えるだろうが、僕はここを非常にいいシーンと感じていて、なんならこの時点でホロリとさせられたりした。

 リチャードは、ワトソンに「人を守りたい」と夢を語る。ワトソンは「正しき者の鑑だな」と笑う。2人の友情が太陽光を反射してキラリと光る。と同時に、リチャードは法執行官(警察とかFBIとかの秩序維持をする職業)と銃に憧れを持っており、心優しく強い正義感を発揮する一方で、“力”を渇望しているためバランスを崩せば危ない、という性格をさらりと示して見せている。背景の説明としても非常に優れたシーンなのである。

 リチャードは転職することになり、別れの日、ワトソンはリチャードにこう語りかける。「ゲス野郎にだけはなるな。権力は人をモンスターにする」。この一言が、彼らの友情を揺るぎないものにした感じがある。このセリフが、この先の展開における「なんでここまでワトソンが協力するんだよ」という野暮なツッコミを叩き潰す役割を担う。とことん見事な脚本だと思う。

 ところが10年後、リチャードは大学構内の警備員として働いていて、学生たちに対して高圧的な態度をとりめちゃくちゃ嫌われていた。ワトソンの「ゲス野郎」の伏線を秒で回収していて、めちゃくちゃ笑ってしまった。

爆弾を発見する

 で、なんやかんやあってリチャードはアトランタ五輪の警備員として働くことになる。コンサート会場に張り付いている最中、爆弾を見つけ、周囲を避難させているとそれが爆発。死傷者は出たものの、周囲が爆発物が入ったリュックを「ただの落とし物だろ」と歯牙にもかけないなか深刻な危険物だと見抜き、最悪の事態を防いだとして英雄扱いされる。

 この一連のシークエンスが非常に見事。FBIの捜査官かなんかがリュックの中を改め、爆発物だと気づいたとき、驚くどころかドン引きの表情を浮かべる。そして避難の最中に爆発し、にぎやかだったコンサート会場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。心臓の音、救急車のサイレン、女性や子どもの悲鳴、おっさんの息も絶え絶えのうめき声などをBGMに、俯瞰のショットと、地面を這いずるショットが交互に連続する。臨場感が半端ではない。イーストウッドの面目躍如と言ったところか。

 そして印象的なのは、この最悪の状況にも関わらず、リチャードがなんか楽しそう、という点だ。パニクるどころかイキイキしていて、なんなら頬を紅潮させながら「避難してくれ、危ないぞ!」と目を輝かせて叫び走る。彼の「自分はこんなにすごいことをしたんだ!」「すごい、映画の主人公みたいだぞ、俺!(実際そうなんだけど)」「憧れの法執行官みたいだ、俺!」「みんなが俺に注目している!」と全身でビンビン感じ、まるで犬が尻尾を振って飛び跳ねるみたいに公園を駆け回っている。

 要は、この行動だけで、彼の性格を非常に端的に表現しているのだ。目立ちたがりで、力への強い憧れを持っている。この傾向が、のちの悲劇を招くことになる。

 ちなみに、物語の悪役的立ち位置に収まる女性記者(オリビア・ワイルド)が、ここで印象的な言葉を吐く。こいつがまあ~むかつく女なんだけど、爆発が起きた後、自身も現場にいて死にかけたにも関わらず、駆けつけて来て心配する同僚に対し「ああ、なんてこと! 神様どうか、他紙をだしぬけますように。そして願わくば、犯人が興味深い人間でありますように」と願い、あまりにもがめつすぎる姿勢で同僚をドン引きさせている。ここでもイーストウッドの「短いシーンで性格や状況の多くを伝える」という手腕が光る。本当にめちゃくちゃうまい。これでほぼ一発撮りというから、見ている間中「このシーンも一発OKだったの?」とマジで驚かされたりする。

リチャード、FBIにマークされる SNS社会への警鐘が顕在化する

 ここから、物語は核心に迫っていく。FBIはリチャードの「目立ちたがりで、力への強い憧れを持っている」という性格から、この爆発事件の犯人だと断定。ろくにしらべもせず捏造まがいの証拠を揃え、しかも地元新聞の女性記者に「ジュエルが犯人」とリークし、実名報道させる。これによりリチャードは英雄から一転、世紀の犯罪者としてマスコミから追われるようになる。

 するとどうだ、前日まで「我らの誇りだ」と声をかけてきた街の人々は、まるで腫れ物に触るかのように遠巻きに見つめてくる。TV番組のコメンテーターは「な、言ったろ。怪しいと思ってたんだ」くらいの手のひら返しをし、リチャードの世界はいっぺんに転覆する。ここに、フェイクニュースの拡散における恐ろしさが顕在化する。

 “嘘”が“真実”として世に放出され、拡散されることにより“事実”と化す。情報は多くの人に共有・定着したとき、虚偽であろうと真実であろうと関係なく、事実となるのだ。ひとつの報道により虚偽が事実となってしまったこの出来事は、メディア社会学などにおける“報道の倫理”を論じる上で必ず登場する(松本サリン事件などと同列に)。

 そしてこのことは、SNS社会に生きる私たちの身を切り刻む。フェイクはあっという間に拡散し、メディアもファクトチェックをせずに報じ、さらに拡散は加速し、当事者のもとには罵詈雑言が寄せられ続ける。メディアリンチとも名付けられるこの現象は、私たちの生きる世界がことに不安定であり、危うい影のうえに成り立っている、ということを指し示す。

 最近でいうと、abemaTVで放送された番組「当事者に聞く“小児性愛”衝動はなぜ」において、「10人の女児をレイプした犯人が顔出し実名で出演し、『被害者の女の子たちに会いたい』と話した」といったツイートがTwitterに投稿され、バズりにバズった。しかしこれはデマ。実際にはその男はそんなことを一言も言っておらず、内容も全く違った。

 実際には以下のツイートに詳しい。こうした訂正がいくつも投稿されたが、デマツイートに比べて拡散は非常に少なかった。つまり、デマは超スピードで拡散し事実と化したが、実際の事実はあまり拡散せず、ネットという電子の海に“デマ真実”のみが残ってしまった、ということである。これは非常に恐ろしいことだ。もしも僕たちが巻き込まれてしまったら、対抗する手段はあるのだろうか。

一方で、リチャードを救うのは誰なのか

 報道を見て、友人でもなんでもない奴らは途端に離れていった。しかも、後ろ足で砂をかけながら。96年の出来事は、驚くほど現代社会と重なっていく。メディアを通じた人とのつながりは、か細く、ちょっとでも負の出来事があれば簡単に途切れてしまうのだ。

 そこでリチャードを救うのは、誰なのか。それは“切実なつながり”であった。もっと言えば、弁護士ワトソンや母ボビ(キャシー・ベイツ)、そして途中から急に現れ「誰?」と思わせるのっぽの男(FBIからリチャードとのゲイ疑惑を向けられたり、朝食を食っている最中に連行されたりと何かと可哀想なやつ)であった。彼らはリチャードと人生の一定期間をともにし、思いを共有してきた人々だ。フィジカルなつながり、と言い換えることもできる。

 ここに、物語の重大なメッセージが浮かび上がる。メディアを介した人とのつながりは非常に弱い。一方で、フィジカルなつながりは強固であり、窮地にも動じることはない。リチャードはフィジカルなつながりを足がかりに、心折れることなく立ち向かい、最後には勝利を勝ち取る。コケにされつづけた彼らの反撃には、見ていて拳が突き上がり、想像だにしていなかった高揚感が胸いっぱいに広がっていく。

 SNSにおけるいいねやRTは、弱いつながりしか喚起しないいわば“幻影”である。切実なつながりを育むこと、つまり「SNS世界を捨て、現実世界を切実に生きろ」というメッセージが、画面を通し、言葉でなく心に届いてくる。スマホを見つめ5分ごとにTwitterを開き、自分の投稿のエンゲージをちまちま確認している自分を振り返り、ハッとさせられる瞬間であった。

まとめ

 そんなわけで、フェイクニュースによりすり潰されそうになったリチャードが、切実なつながりをきっかけに反撃に転じ、勝利するまでを描出した。物語のトーンは抑えめで、セリフではなくシーンで背景や心情を語ることが多いので、脳みそ空っぽのポップな観客にはちょっと難しい映画かもしれない。しかしながら、しっかりと見ればこれ、非常に面白い秀作である。僕は母ボビの演説でグッときたし、ワトソンの「よくやった、レーダー」というセリフで非常にジーンときたりした。映画の醍醐味が詰まった、とてもおすすめの作品である。

 しかし、女性記者やFBIが最後の最後まで謝らないのは、「おい!」と憤ってしまった。胸糞悪すぎるだろ。女性記者の描き方については、非常に恣意的で攻撃的であるとして、実は批判の対象になっているわけだが、それはまた、別の、お話(森本レオ)。

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