【ネタバレ】「グリーンブック」感想 手紙が示す“対話の郵便性”と“無自覚な差別”

2019年4月1日

 高校1年生のとき、家から自転車で20分の距離にあるTSUTAYAに通いつめていたことがある。幼いころに「マスク」「ホームアローン」を見て以来、コメディ映画が好物だったこともあり、アメリカのコメディを片っ端から見ていこうと決めたからだ。

 大変、バカな作品にたくさん出合った。特にジム・キャリーとベン・スティラーがお気に入りだった。「ズーランダー」「ミート・ザ・ペアレンツ」「ポリー my love」「スタスキー&ハッチ」「隣のリッチマン」「ドッジボール」「ブルース・オールマイティ」「ライアー・ライアー」「トゥルーマン・ショー」「ディック&ジェーン 復讐は最高!」……。ゲラゲラ笑わされるうちに、なぜだか涙が流れていることもままあって、それはそれで、ちょっと困ったりもした。

 ピーター&ボビー・ファレリー兄弟監督作「メリーに首ったけ」 が、実は映画にのめり込むきっかけになった作品だったりする。 表情筋がつるほど笑わされ、物語の弾みぶりに心の底から唸り、そしてラストシーンでは滂沱の涙を流さざるを得なかった。

 メリーが欲しくて欲しくてたまらないからマイアミまでやってきたのに、結局はステディぶって身をひこうとしたテッドの背中に、「これは俺の物語だ」と叫んだ。以後、僕のなかには常にこの映画がどこかにひっそり佇んでいて、今日までまあまあ痛い人生を歩んできている。

 同作のみならず多くの傑作コメディを世に送り出した“ファレリー兄弟”の兄、ピーター・ファレリーが、「グリーンブック」を撮ってアカデミー賞で3部門を受賞した。おバカで下品なギャグははるか彼方に置いてきて、人類への願いをハートフルな包装紙でくるんだ優しい物語は、僕の心にもしっかりと届いた。

手紙が持つ意味とは

 快哉を叫びたい気分で劇場を後にし、手近の居酒屋に入った。僕の青春を甘酸っぱく彩ったピーター・ファレリーがここまで素晴らしい物語を紡いだ、やっぱりいい映画だったと思ったので、この文章を書いている。赤ちょうちんがぶら下がっている小汚い店だから、カティサークなんてもちろん置いていない。痩せた泡が申し訳程度に乗ったビールをちびちび舐め、カウンターからオヤジが寄越した焼き鳥をはぐはぐとかじる間、考えを巡らせるのは“手紙”についてのなんやかんやだ。

 ビゴ・モーテンセン演じるトニー・リップは、旅に出る前に妻ドロレスから「必ず手紙を書いて」と頼まれる。教養もないトニーは、タバコをひっきりなしに吸いながらテーブルに向かい、めちゃめちゃ斜めに紙と鉛筆を構え、まるで木の板に彫刻で刻み込むみたいに文字を書いていく。書きなぐりだから誤字はひどいし、訂正のためにぐちゃぐちゃと線を引くから、文章の内容以前にちょっとどうかと思う手紙だ。

 見かねたドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)が「こう書け」と言葉を発し、そのとおりにトニーに書かせていく。上品かつ教養に富んだ文章は妻のもとに届き、妻のみならず親戚の女性一同をも恍惚の表情にいざない、トランプに忙しい男性一同を「手紙だけは上手いな、あいつ」「芸術家の家系だからな」と笑わせる。

 物語にはドラマツルギーがあり、登場するモチーフはほとんどの場合なにかを示唆する。ロシアの作家アントン・チェーホフはこう言った。「銃が登場したならば、それは撃たれなければならない」。必然性の名において銃弾は放たれ、銃そのものは争いや死を意味する。

 今作の手紙は“コミュニケーションの郵便性”を示す。差出人が郵便を預ければ、それは郵便局を通じて受取人に届けられる。しかし、郵便は確実に届くのだろうか。何かの行き違いでどこかに行ってしまえば、永久に失われる、あるいは届いたとしても意図しない形で受け取られる。郵便性とは、めちゃめちゃざっくり言うと「意図したものが届くかどうかわからない」、そういうことだ。

手紙はしっかりと届いたか?

 トニーからドロレスへの手紙はしっかりと届いた。しかしトニーからドクターへの、あるいはドクターからトニーへの“言葉”という手紙は届いていたのだろうか。

 トニーがフライドチキンを勧め「黒人のソウルフードだろ?」と語りかける。ドクターは当然、苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。用心棒に悪気があったわけではなく、ただバカで無自覚なだけで、本当に単純に美味いからチキンを食えと言っている。しかし、ドクターにはその意図は届かない。

 こうして、トニーとドクターはいささか、すれ違いを見せ、誤解と理解を繰り返しながら旅を続けていく。コミュニケーションは、発話者の意図した意味から大きく外れ、誤解されることは珍しくない。言葉という媒介を通している以上、発話者が本来意味する内容から離れていってしまうことは必然でもある。コミュニケーションは非常に脆いシステムの上に成り立っている、極めて紛失されやすい郵便なのだ。

 考えてみればこの映画、“知らない”と“知る”というモチーフが頻出する。トニーは手紙で「この国がこんなに美しいことを知らなかった」と書いたし、トニーとドクターは不安定な手紙のように対話するうちにお互いを知り、友情を芽生えさせていく。コミュニケーションが“届くかどうかわからない危うい手紙”だと暗に示すこの映画は、それでも差し出さなければ、話してみなければ絶対に届かない、と強く訴えかけるように切実なシークエンスを刻んでいく。

 トニーが膝の泥を払う。ドクターがベランダでカティサークを飲みながら階下を見下ろす。「寂しいときは自分から手を打たなきゃ」「才能だけでは不十分だ。勇気が人を変える」「黒人でも白人でも人間でもない。教えてくれトニー。私はなんなんだ」。2人の旅路を通じ、ファレリー監督は“話し合う”ことを説いている。3月5日の来日会見で「話し合うことで平和になる? シンプルすぎやしないか。そういう人はいるでしょう。しかし、話してみなければ絶対にわからない。話すことなしに平和はない」と、それまでのおちゃらけをふっ飛ばしてガチのメッセージを込めていたのが、深く印象に残る。

“見えない差別”を可視化した傑作

 一方で、黒人への差別は可視化されたが、アジア系やメキシコ系への差別は依然として透明な状態にあるのではないか、とも思う。聞いた話では、ドイツの映画館では、トニーが黒人の使ったコップを捨てるシーンでは「なんて馬鹿なことを」と嘲笑が起きるが、「嫌ならさっきの中国人を雇え」と侮辱する場面では、その表現に対し普通に笑いが起きるそうだ。

 我々は“当たり前”をあまり疑おうとはしない。映画館の彼らは、アジア系の人々を差別していることに気づいてすらいない。似たような差別は、我々が気づいていないだけで日常のそこかしこに潜んでいる。この映画は、60年前のアメリカから、ファレリー監督を通じて送られてきた“手紙”でもあり、そしてそれは 「無自覚な差別はいたるところに存在する」と警告する 。

 ファレリー監督は来日会見やインタビューの場で、この物語は“希望”だとも繰り返し説いていた。希望の手紙だ。アカデミー賞受賞後、ある方向から烈火のごとく非難が上がっている状況を見ると、残念ながら郵便は間違ったところに届けられているようだ。それでもなお、否、それゆえに一層、今作の持つ意味は深く深く話し合われ、論じられるべきだと思う。

 漠然と憧れていたファレリー監督の愛情がこもった物語と、ビゴ・モーテンセンの人間くさい仕草、マハーシャラ・アリの深遠なる内面がにじみ出た存在感が成立させた数々のシーンは、いつまでも見ていられるほど大好きだ。極東の島国にも“届いた”人間がいるんだから、同じ気持ちを持っている人は、きっと世界中にいるはずだよ。