「ジョジョ・ラビット」レビュー 90点 超おすすめのアカデミー賞有力作…ヒトラーと少年の交流は、言葉と暴力の物語へ発展する【後編】

90点:チケット購入安定

 物語の概要や、ワイティティがヒトラーを演じる意義を語った前編はこちら↓

ジョジョ、大尉、母、教官、親友

 映画にかぎらずあらゆるコンテンツでそうだが、キャラの魅力が物語を牽引していく。その点でいえば、今作は抜群のエンジンを備えていると言って良い。まず、主人公ジョジョ役のローマン・グリフィン・デイビスくんだ。

 子どもがあるがゆえに純粋で、洗脳に気が付かず、プロパガンダを信じきり、立派な兵士を夢見る少年が、やがて冷酷な現実にさらされて歪み、感動的なメタモルフォーゼを見せるまでを明確に演じている。その表現のレベルは非常に高く、表情やセリフ回しや動作など基本技術はピカイチで、しかも多彩。本当に11歳か? 人生5周くらいしてんじゃねえのか? と疑わずにはいられない天才っぷりだ。

 前編で「実はすごい子役」と述べたが、なにがすごいのかというと、この年齢で「オーディションに80回以上落ちている」という点だ(試写後のロビーでそんなことが漏れ聞こえてきた)。手元のプレス資料には、9歳でオーディションを受け始め、今回が映画初出演と書かれている。80回以上は大げさにしても、かなりの苦労人であることは間違いない。私がもしも9歳で、80回以上も「お前は落第!w」と烙印を押され続けたら、舌を噛み切って自殺している自信がある。そんな地獄の日々が報われて、今作でゴールデングローブ賞にノミネートされたので、本人はもとより両親も大喜びだろう。なんなら、私も嬉しかったくらいだし。

 またサム・ロックウェルのいい加減な人っぷりも印象深い。ジョジョの教官クレツェンドルフ大尉役で、常に酩酊状態でフラフラしており、真面目な瞬間が1秒もない。出てくるたびに「次はなにをしでかす?」とワクワクさせられるし、ネタバレになるので詳しく言えないが、最終盤の感動はこの人がかっさらっていくから卑怯だ。

 スカーレット・ヨハンソンの母親役も素敵で、彼女とジョジョが食卓でレコードを聞きながらダンスを踊るシーンは、人が生きる上で文明が果たす重要性を思い出させてくれる。人は音楽なしでは、正気を保っていられないのだ。その直前、父がいないことへの寂しさからジョジョが理不尽にも暴言を吐いたことを咎め、男性的な変な人格を引っ張り出してきた様子も、いたくチャーミングで好きだった。

 そしてユダヤ人少女・エルサ役のトーマシン・マッケンジーの美ぼうには目を見張る。エルサは聡明で芯が強く、絶望的な状況でも涙は見せず、ちょろそうなジョジョを脅していいように使うなど怖いもの知らずでもある。設定はまんま「アンネの日記」で知られる屋アンネ・フランクなのだが、悲壮感がないので安心してみていられる。ニュージーランド在住のマッケンジーは、ティモシー・シャラメ主演のNetflixオリジナル映画「キング」にも出演しており、今後のさらなるブレイクが確実視されているので、今のうちに唾を付けておけば後々、ニチャ~っとしたドヤ顔ができる。

アーチーくん

 あと、レベル・ウィルソンとアーチー・イェーツくんの太っちょコンビも、いい感じだ。特にジョジョの親友ヨーキーを演じたアーチ―くんは凄まじく、その正しい“太っちょぶり”には度肝を抜かれる。まるまると太ったそのフォルムは、どちらかというと球体に手足を生やした感じに近く、神が人間を作るときにアプローチを間違えた、そんな感じを思い起こさせる。彼の体型を見て、ははーん、とピンときた。

 これはあれだ、ずっとお菓子を食ってるな、この子は? でなければここまで可愛らしい生き物が生じるはずがない! 私は昔、こんな光景を目撃したことがある。横浜線だったか小田急線だったか忘れたが、私が乗っていた車両に、ズッコケ3人組みたいな小学生3人組が乗り込んできた。なかでも太っていた男の子は、手にプリッツを持ちポリポリ食べていたのだが、横のメガネくんにこう口走った。

「俺、お腹すいちゃったよ」

お腹すいちゃったよ??????????????????????

プリッツ食ってるのに???????????????????????

 これが正しい太っちょのあり方である。アーチーくんも、ロンドンの地下鉄に乗り込み、フィッシュアンドチップスをべちゃくちゃ食いながら「アイムハングリー」とか言うに違いない。

 いや、本当はそんなことどうでもよくて、アーチーくんもケタ違いの天才子役で、本当にすごいから語彙力が吹っ飛んでしまう。日本人に例えると寺田心的なあざとさを持ちつつ、コメディの才能もビカビカ光る。リブート版「ホーム・アローン」の主役に決まっているというから、これからのスターダムは約束されているようなものだ。

ユダヤ人とドイツ人=女性と男性

 ところで、男女のモチーフが度々表面化することも、本作の特徴である。この作品では、意図的に男性キャラが間抜けに、女性キャラがしたたかに描かれている。ジョジョもヒトラーもクレンツェンドルフもヨーキーも、どこかネジが緩んだような言動が目立つ。一方でロージーは白薔薇よろしく反政府活動を水面下で行っていたし、エルサも子どもながらに生き抜く術を心得ている。そして何より、ドイツを破滅へと導いたのは、紛れもなく“ドイツの男たち”である。間違っても、女性たちではないのだ。ジョジョの母ロージーは、男たちのせいでこの国が滅びる、ということをきっぱりと明言してさえいる。

 そしてそれは、ジョジョとエルサの関係にも現れ、ジョジョ=ドイツ人は男性、エルサ=ユダヤ人は女性を代表しているように描かれている。例えばエルサはジョジョよりも年上で体も発達しているし何より頭がいいので、ジョジョを力任せにねじ伏せたり、口八丁で言いくるめたりする。また時には、エルサは「テレパシーで心がわかる」とうそぶき、ジョジョに「僕のもわかるの?」と聞かれるが、「ドイツ人のは無理。馬鹿すぎてわからないから」と煙に巻いたりする。常に女性が、男性を上回っている。そんなふうな構造が、透けて見えるようである。

 ここでなにがわかるかというと、平たく言うと「男性はもう、ダメなんだよね」というテーゼだ。もっというと、男性中心の社会の限界と、女性による社会運営の本格化を描いているのである。この構造は実は、近年の映画で非常に目立つテーマでもある。例えば2019年作品でいうと、代表的なのが「アイリッシュマン」と「ターミネーター ニュー・フェイト」。男性社会がエントロピーの増大的に自重に耐えきれず崩壊し、前者は本当に虚しいデ・ニーロの姿で終わり、後者は女性たちの無双により物語がグイグイ進んでいく。「ジョジョ・ラビット」はキュートなコメディ映画であるが、そうした作品と肩を並べられるテーマも含んでいて、本当に多彩ですごいと思う。

リルケという詩人、そして言葉による解決

リルケ

 ところで、実はここからが一番重要(だと思っている)ところなのだが、劇中で“詩人リルケ”の言葉が印象的に引用される。エルサの恋人が好んでいる詩人、という設定で登場し、エルサに無意識に惹かれ始めていたジョジョは、彼女が恋人とリルケについてうっとり話す様子に、“胸の疼き”を初めて感じ少し戸惑う。そこでジョジョは、小学生男子が好きな子に意地悪するのと同じような感じで、その恋人を装った手紙をしたため、「エルサ、君を捨てて僕は遠くへ行くよ」といった虚偽の内容を、隠し部屋の前でうやうやしく朗読するのだ。

 当然、エルサはショックを受けたようにしょんぼりとする。ぎょっとするジョジョ。踵を返して新たに筆を走らせ、今度は「やっぱり戻るよ、ハニー」的な翻心の手紙を朗読し、フォローしようとする。なんとも愛くるしいシーンであり、嘘を通じて2人の心の距離が縮まるというチャーミングな仕掛けで、「愛する者を束縛してはならない」と語りかけるワイティティの手腕に、見ている間うなりっぱなしだった。

 さて、リルケの詩は、エンドロール直前に最も華々しく引用される。「すべてを経験せよ。美も恐怖も生き続けよ。絶望が最後ではない」。それは当然、ジョジョが経験した“すべて”を象徴しているのである。

 ライナー・マリア・リルケ。1875年にチェコ・プラハで生まれ、時代を代表する詩人として名を馳せながら、その人生は常に戦争という“暴力”に翻弄され続けた。父は軍人であり、少年期に陸軍幼年学校および士官学校に入れられ、そこで挫折を味わった。青年期に第一次世界大戦が始まり、オーストリア軍に従軍するも、病弱だったためその任に耐えられず、ここでも大きな挫折を味わった。

 そうした鬱屈した背景は、ヒトラーユーゲントで“弱虫”と侮られ、意欲はあるのに戦地にいくことが叶わず、ミュンヘンでどうでもいい雑用に身をやつし、やさぐれていくジョジョの姿と重なる。しかしながら、リルケは詩、すなわち“言葉”を手に、暴力に対抗し続けた。それはジョジョも同様であり、そこに私が本作を愛してやまない最大の理由が隠されている。

 劇中、ジョジョは一貫して、言葉による対話、そして解決を志向する。うさぎを絞め殺さず、エルサをゲシュタポに突き出さず、意地悪な教官たちにも手を出さなかった。常にたどたどしく幼稚ながらも、言葉を駆使し、目の前の現実(正)と自らの心の声(反)を衝突させ、新たな価値観(合)を見出し解決への道筋を示してみせる。つまりジョジョは、言葉を軸に弁証法的に世界と対峙するのである。周囲の大人たちが、暴力によってしか物事を解決しようとせず、そしてことごとく失敗しているなかで、10歳の少年ジョジョが言葉を使って、大人たちが成し得なかった素晴らしい結末へとたどり着くのだから、それを見てもう、私はダメだった。ラストシーンは泣いて泣いて仕方なくて、この感動を色んな人に味わってもらいたいから、こうして長々と嫌がらせのような長過ぎる文章を書いているわけだ。

 そしてジョジョは、弁証法的に世界を見渡していった結果、“悪魔”だと教えられていたユダヤ人など存在せず、そこにいるのは自分と同じ人間なのだと気がついていく。それは「進撃の巨人」29巻で、ガビが「教えられていた悪魔なんていなかった、いたのは私と同じ人間だった」と涙を流すように。

そして、いよいよ戦争は激しくなる。

 物語終盤、ジョジョの住むベルリンに戦火が及ぶ。ほのぼのとした物語の背後に、暴力が忍び寄っていたのを観客は気が付かない。いつの間にか、自分が戦争に取り囲まれていて、その恐ろしさに身の毛がよだつ思いを覚えるだろう。街からは若者たちが消え(みんな戦地にとられているから)、女子供と老人しかいない。ヒトラー・ユーゲントの事務所が、ほぼ子供だけで運営されている様子を見るや、それこそ総毛立つほどおぞましい感情が全身を駆け巡る。

 つまりこの映画は、戦争の色が濃くなるに従って、ディストピア映画としての側面がニュッと顔をのぞかせるのである。ジョジョは“メタルマン”の格好で街を練り歩き、金属を集めて回る。「未来世紀ブラジル」を思わせる、非常に滑稽なシークエンスに乾いた笑いが溢れる。そして、子供が戦地で戦い、砲撃によって死ななければならないという事実が突きつけられ、胸が引き裂かれそうになる。しかしそのことは、果たして“歴史”のなかでしか起こり得ないことだろうか? 翻って考えれば、それは今の世界にも、もっと言えば今の日本でも起こり得るし、そもそも“ディストピア”はもう実現してしまっている。ということは、この映画は、最も邪悪とされた“全体主義”下のドイツで起こっていたことを現代と重ね合わせることで、今目の前にある現実を批判する装置としても機能する。つくづく、懐の広い作品である。

 かくしてワイティティのメッセージは、ベルリン決戦にてはじけて混ざる。やがてカタルシスの大嵐を巻き起こし、その嵐の中には比喩のナイフが仕込まれているため、嵐の暴風にさらされた観客の心はズタボロになっていく。そして、こう思う。「こんな世界に、してはいけない」。強くそう思わせる。私たちを具体的な行動に向かわせる。それがすごい。

 作家・浅田次郎は、「プリズンホテル」のなかで、主人公の小説家の口を借り「最も優れた小説は、読むものの価値観をひっくり返らせるものだ」的なことを語っている。とするならば、見る者の行動を変革させる力を持つ本作は、特に優れた作品であるということになる。そここそが、本作がトロントで観客賞を受賞した由縁なのではないだろうか。見たものがすべて、行動を変革させられた。その結果が、賞という現象として現れただけだ。

 映画はジョジョとエルサのダンスでキュートに終わる。そこで、はたと気がつく。そうだ、私たちは不条理な世の中に生き、悲しく辛いことも多く抱えているけれども、大切な人と言葉を交わし、ダンスを踊りさえすればそれでよいのだ。それこそが人間性を保ち、横暴な世界に対抗する唯一の手段なのだから。レコードに針が落ち、希望の音楽が始まった。

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